命の代償


次の瞬間!バン!
モリがゲンさんの手から放たれ、
マグロのホッペタに突き刺さった。

まるでプラスチック板を貫いたような、僅かな一撃。
かと思うと、そのマグロは2度、3度と首を振る。
モリの柄がブルブルと揺れ、
マグロの頬から滲み出た血が赤い煙のように漂う。

「これで仕留めたのか?」私には初めての事で、
その残酷であろう光景が神々しく、そして美しく見えた。
問題は怪物の巨体を、どうやって船の上へあげるかだ。
巨大な釣り針のような、鉤でマグロを船に固定したゲンさんは
半身を船から乗り出して、マグロをロープで結わえている。
すでに青い海はくすんだ赤い色で染まっている。

口とエラからロープを通して、ゲンさんはその不安定な体制から、
突然!ゲンコを思いっきり、
マグロに振り下ろしたのだ。
ぇえびす!

と咆哮にも似た一発が、海に生きる男の証だ。
これは、釣りの神「えびす」へ、
そして自分に釣られてくれた海の幸への感謝、
収入の無い日も支えてくれた家族への想い。
てこづらせてくれたマグロへの闘争本能、
それらが一体になり出る言葉だ。
そして全てのマグロ漁師が憧れる歓喜のセリフなのだ。

その、老いた一人の漁師の叫びが、
巨大なマグロとの格闘に、その終止符を打った瞬間だった。
マグロはそのまま船の後ろに結わえた。

「ふぅー!まあまあだ」と笑顔を見せたゲンさん。
しかしマグロはまだ水の中である。
そのままマグロは海水中を引っぱって
帰港するという
マグロは魚類でも最も速く泳ぐ上、巨体でのその格闘。
お腹の中はかなりの高熱になるのだ。
車のエンジンを想像すると確かに、と思う。
それを冷やす効果もあり、また船に上げても、
マグロは自分の体重でその身を圧し潰して壊死させるほどなのだという。

玄宝丸は港に向け走りだした。そして漁協に無線で、
この事を伝える。漁協では家族に電話で、この事態を報告する。
だから、ゲンさんが港に着く頃は家族や親戚が港で出迎え
大漁に歓喜し、感謝するのだ。
そして、それを見るのが漁師としての一番の喜びであり、励みである。

帰りのゲンさんは終始、笑顔かと思ったが、そうではない。
船の操縦で、なるべく波を避け、そして引っ張るマグロに目を配っている。

「昔は、せっかく獲ったマグロをこうやって引っ張ってて、
落とす人もあった。フカっていう、おっきいサメに(マグロが)
食われでしまって、頭だけ残ってた事もあったのさ」と、
優しい口調に戻っている。
船に引っ張られ、水の飛沫をあげる、あのマグロ。
長さは2m近いだろうが、一体、何キロくらいだろうか。 

玄宝丸は港へと入り、そのまま市場へと船を進める。                        市場へも連絡済みだから、さっそく職員がフォークリフトで、
マグロを運んだ。
家族の笑顔がズラーっと並び、賑やかである。
甥ッ子や親戚の人までが、記念写真を撮っている。

血抜きしてるとはいえ、出荷状態に職員が裁割する。
この時、鮮度保存する為の処置も同時に行われる。
そして切り落とした背ビレは勲章として持ち帰る。
一通り済んで、いよいよ検量!
ゲンさんの予想は100Kg程度。
最高重量は数年前の430Kgだという。
現役時の小錦関ですら280Kgだった事を考えると、
そんなマグロをどうやって釣るの?と、思いたくなる。

検量の結果は128Kg!!
「まぁまぁだ」と言ったゲンさん。
「初秋の今だと5千円(キロ当たり)すれば、いい方だ」

ゲンさんの奥さんが、肝や胃袋を袋に詰めていた。
今晩のおかずである。 
このマグロは氷温で熟成されたのち、箱詰めされて、
翌日、東京の築地に並ぶ、奥さんの楽しみは、その価格である。 


ゲンさんとの話しの中では、漁の危険性の高さについても、
マグロに引っ張られ荒海で命を落とす漁師もいたと聞いた。
つい数年前には大間のマグロ漁船の転覆事故もあった。
家族や自分の事、そして海のオドゴとしてのプライド。
常識ではかれるものじゃない。しかし、実際にそうやって生きてる、
暮らしている人達がいる。
その日、私は大間を後にしたが、後日、荷物が送られてきた。

ゲンさんからだった。 短い手紙が添えてあった。その手紙には・・・・

 

 

マグロ一本釣りはどうじゃった?
あっけなかった印象を受けたかもしれない。
しかし、普段はマグロが食いつくまでの長ーい
勝負じゃからな。

マグロは警戒しちまうと何日も口を使わん、
つまりエサを食わないんじゃよ。
今回は運が良かった。

その運で、俺はお前さんが気に入った!
今度は別な漁に連れてってやる。楽しみにな。

本当は命を削る漁師という仕事は、
人にすすめられるもんではない。
自分の息子にでさえ・・・。

 

 

と書かれてあった。第2の故郷、大間にまた行ける!
そう思うと嬉しくてたまらない。
そして、漁師の勲章だといって、ゲンさんが同封してくれたのは、
この時にマグロを釣り上げた針だった。

 

 


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