それは海の格闘だ!


玄宝丸の走る先、その右手に海が沸いたように魚が跳ねる。
その中に時折、ひときわ大きい黒い影が跳ねている。
しかし、船はこのままだと違う方向へ行ってしまう。
そんな不安と、名人ゲンさんを信じる気持ちが交錯して落ち着かない。
そうしてる間も魚の跳ねるナブラは消え、
また予想もしない場所に出現する。

ヒューーーン!と乾いた音がして、船はスピードを落とした、
と思った途端!ゲンさんの仕掛けが宙を舞い投入された。
はじめから用意された仕掛けのようだ。
それは、ゲンさんの、とっておきの仕掛けなんだろう。

こうしたナブラを発見した場合、最初にポイントに到着した船が、
仕掛けを投入していい暗黙の了解があるという。

続々と船が押し掛ける、それには目もくれないゲンさん。
・・・・・・・・・・・・・・
息を殺し、時間が止まったかのような緊張した空気。
・・・・・・・・・・・・・・
テグスを握るゲンさんの手に私は注視した。
ゲンさんは、ここにマグロが来る事を先読みした。
そのカケが当たるか、どうか。

その時、ゲンさんの指からテグスが出ていく。
それは長い時間か、一瞬だったかは定かではない。 
小さな声で「
食った」と言った。 
その言葉に私の体に電撃が走る。

瞬間!静と動が入れ替わる。
ゲンさんは踏ん張る体制。
その太いチカラコブが盛り上がる。
その激しさのギャップ!
そして、目の前の現実とは思えない光景。

テグスはゲンさんの後ろで、
背丈を越え竜巻のごとく渦を巻く。

そのスピードで繰り出されるテグスを握る軍手から
煙が出ている。 

これは釣りなんて、もんじゃない。

異常な魚との格闘だ!

ピピピピピピピヒューピュピュッ、
テグスが風を斬る音なのか、一瞬で数百m分のテグスが
海に向かって消えた。マグロが食った瞬間なんてないらしい。
巨大なマグロは一瞬でテグスを引っ張っていってしまう。
そのテグスの渦が運悪く体に巻き付くと、肉は一瞬で切れ、
骨に達する。実際、腕や手首をやられ、
数年間もリハビリ生活を送った人もいる。
更に2枚重ねの軍手は1枚目は擦れてボロボロになり、
手の平部分は無くなる。
魚が抵抗した時、その体重と力と水の抵抗で、
おおよそ重量の3倍といわれる。
200Kgのマグロだと600Kg近い事になる。

しかもマグロは時速80km近いスピードで走る事もあるという。
それは、走っている軽自動車以上の俊敏さと反応を見せる生物なのだ。
しかし、そんな中でも片手でゲンさんはすかさず舵を切り
船のスピードを調節し、方向を変える。

周りは船でゴッタ返し、「周りの船の仕掛けと絡んだら終わりだろう」
と思った。しかし、玄宝丸はそこから離れていく。
自分に食ったら、次の奴が釣る番という暗黙の了解があるという。
それまで周りの船は仕掛けを投入せず、
待っていてくれる漁師仲間の配慮だ。

昨日聞いていた話を思い出す。
「マグロは一人で手に負えない時もある。
200Kg以上のマグロとかな。そんな時は周りの船から、
乗り移って手伝いに来てくれる。船の動きや釣ってる人の動きで、
手伝うべきかが周りの船には解るのさ。
手伝うときゃ、皆、自分の船から乗り移るから、
無人になる。つまり仲間は
自分の船さえ捨てて、助け合うのさ」と。

今日は私が乗っている。しかもゲンさんはテグスをたぐり寄せ始めた。
ゲンさんは渾身の力でテグスを引く。
どうやらマグロの走りを止めたらしい。

ゲンさんは「ちょっとテグスを持ってろ」と言ったが、
私はすぐ返事が出来ず、「巻き上げ機の先の糸を持ってこい!」と怒鳴られ、
走った。そして糸と糸をつなぎ終え、
糸は機械とゲンさんの2段構えになった。
私は腕一本でつり上げるイメージだったのだが。

「ん?何?あぁ、今じゃー非効率的だから、
巻き上げ機に応援しもらうようになった。」
それでも、150キロ超のマグロだと、取り損なう確率が高いという。
しかし、走りが止まった後のマグロは今度は底へ底へと何度も潜る。
糸が切れそうになれば、糸が出る程度の機械には、
マグロを引っ張る力などない。
昔だったら2時間はかかるが、機械のおかげで、
少しは楽になった、大体、後30分くらいだろう」
と言いながらテグスを引っ張る。
結局、機械はゲンさんの後ろで少しだけ引っ張ってくれるだけのものだ。
ゲンさんは草をむしり取るように糸をたぐる。
それは自分のプライドや、生活を支える幸せを
ひとつひとつ、わしづかみに自分の懐へ引き込むようだ。

後20分、それは遙か遠い時間のように思えた。
大きいのか、小さいのかは私には解らないが、
ゲンさんの様子は悪くないようだ。
ゲンさんは「マグロならいいけどなぁ」と言った。
たまにシイラやサメだったりする事もあるのだという。

ゲンさんの息もあがってきている。
テグスを引くたび、汗が流れ続ける。
マグロが急に潜れば、声にならない声を発し、じっと耐える。
それが、やがて船の下にテグスが向かっている。
マグロは今、この下、何十mか下にいるのだ。


ゲンさんはテグスをたぐり寄せた。
やはり、体ごと海中に引き込まれるほどのマグロの勢いに
船から身を乗り出すゲンさんにヒヤッとさせられる。
やがて・・・・
海中には黒とも蒼ともつかない物体が動いている。
それは、たった1本の細いテグスで玄宝丸へと、
ゆっくりと円を描きながら海底から登ってくる

そして時折、体を横にしたとき銀色の魚体が光る。
間違いなくマグロだ。
しかもデ、デカイ!いや、そんなもんじゃない。
怪物のようだ。
実際はどうか解らないが3m以上もあるように見える。
普段は忘れかけている自然への畏怖と神秘に気付かされる。
そして準備しておいたハヤスケ(モリ)を私に持っていろと手渡した。
やじり状の先から、ワイヤーロープが付いていた。
とにかくゲンさんの慎重かつ素早さといったらない。
「テグス掴め!」「ハヤスケ(モリ)をよこせ!」
と指示通りにする。
今、この手を離したらマグロが逃げるという想いで、
私は必死に掴んでいる。
そのテグスをゲンさんが片手でたぐれば、私もたぐる。
船にくっつくように、そして
巨大な魚体が水面に姿を現した!

次の瞬間!バン!
モリがゲンさんの手から放たれ、
マグロのホッペタに突き刺さった。


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